新規事業開発の実務

花粉症 (>_<)

社畜乙wwww とか言ってたら、いつのまにか自分が社畜になってる。という件

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 最近あちこちで「社畜」って言葉を聞くようになったので、ネットで意味を調べてました。
 
社畜(しゃちく)とは、主に日本で、勤めている会社営利企業)に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷家畜)と化したサラリーマンの状態を揶揄したものである。(Wikipediaより) 

 

うーん、まあ、意味はわかるんですけど例えが悪いですよね。家畜とか奴隷とか。

 

ただ、「飼いならされる」とか「意思の放棄」みたいな意味を持った言葉が流行るあたり、まあ、なんらかの世相を反映しているのかもしれません。

 
 
そういう時代なのかなー、なんて考えてたらふと、思い出したんですが、「内面化」って言葉ご存知です?
   
 
「飼いならす」「飼いならされる」、どっちでもいいですけど、そういうフレーズに興味があるなら、「内面化された規範」という話は興味を持っていただけるかも。運がよければ(もしくは悪ければ)、無自覚なまま与えられる行動上の制約について、貴重な実体験が得られるかもしれません。
 
書きます。
 
 

”規範” を ”内面化” する 

 「規範」とは、社会や集団における模範的な姿であり、社会が個人に対して同調することを期待する基準。
 
「内面化された」、というのは、元々外側にあったけど今は内側にある。という感じ。
 

内面化(ないめんか)とは、その社会が有する価値規範を、自分の価値と規範として、受け入れることを指す。内面化により、集団は円滑に集団目標を遂行できるようになり、個人は円滑に集団から受容されるようになる。安定した精神構造をもたらすメカニズムであり、これが働くことで人間関係における精神状態を形成することがある。

内面化により、賠償金刑罰などの手段で、規範を外部から個人に強制する必要はなくなる。違反行為は、個人が道徳により内面で裁くからである。また、ある価値と規範を受容した個人は、それを受容しない個人に嫌悪憎悪などの感情を抱き、内面化を他者にも強制するようになる。

 

卑近な話で例えてみたい。

 

例えば、シートベルト。日本の一般自動車道で運転席・助手席のシートベルト着用が義務化されたのは1992年11月だそう。当時私は14歳だったんだけど、助手席に乗るとシートベルトをしなければならないのが、とにかくめんどくさかったのを覚えている。事故に合う確率と、死ぬまで車に乗るたびにシートベルトをつける手間の総量を考えると本当は割にあわないのではないかとか、そんな反論をまじめに考えていた。しかしまあ、それから長い年月が経ち、今では全く当たり前のようにシートベルトをしている。
 
最初は規範を強制され、反発したけど、そのうちそれが当たり前になってなんとも思わなくなること。「規範の内面化」って、そんな感じ。
 
ローレンス・レッシグというアメリカの法学者(専門はサイバー法)が詳しい。
参考 : CODE VERSION 2.0 
 
 

知らないうちに、多分結構抱え込んでるぼくら 

そういうわけで、真面目なぼくらは多分、多くの規範を内面化し、無自覚に従っている。何かをしたいと思っても、無意識に踏みとどまっていることがある。
 
真面目じゃないひとは大丈夫 ^^b
 
 
人のものを盗まないとか、ソーシャルメディアに会社の悪口を投稿しないとか、電車の中でエッチなサイトを見ないとか。まだ内面化できてなくて、毎回葛藤してる人も、いるかもしれないけどさ :p
 
 
レッシグ先生によると、「規範(道徳や常識)」の他にも、「法律」「市場」「アーキテクチャ」なんかが僕らの行動に影響を与えているんだそうな。アーキテクチャっていうのは、ここでは「構造そのもの」、みたいな意味。人々がファストフードで長居しないのは、長く座ると疲れる形に椅子がなっているから。ショッピングモールでついつい買い過ぎちゃうのも、その場所自体が購買を誘引する構造に工夫されているから。「市場」と「アーキテクチャ」は、内面化とはあんまり関係ないかな。 今は忘れてもらっていい。
 
一度内面化した規範なり規制を、もう一度意識の上に引っ張り上げて、「これって正しかったんだっけ?」と問いただすことはとても難しい。自分の行動の理由なんて、いちいち考えていたらきりがない
 
だからこそ、だからこそ意識して、自分の行動の理由を、きっちり問いたださなければならない時がある、と思う。
 

サラリーマンが内面化してそうなもの

これは思いつきで書いているブログだから、規範を内面化した結果による行動で、サラリーマンが強く意識しなきゃいけないと思う罠を、やっぱり思いつきで挙げてみる。
 
  • ルーチンワーク
    ルーチンワークは、基本的には効率を追求した合理化の産物だ。うっかり忘れることを防ぐし、繰り返して習熟度が上がれば間違いも減る。だけど今回注目したいのは、「やるべきかどうかの都度判定をすっとばす」という点だ。「やるかどうかの判定」が内面化している仕事はないか。当たり前だと思っている仕事に無駄はないか。定例会議や定期レポートなどは意識すれば改善しやすい。月に1回くらいはそれらの意義を見直したい。

  • 抑止力
    「これやると○○部がうるさいからな・・・」「過去に○○で失敗したことがある」、失敗や懲罰、あつれき、いざこざなども印象が強かったり、何度も経験すると抑止力として内面化する。「抑止」というからには、何かを抑える働きをする。チャレンジすべき、行動すべきと心が感じる時は、内面化された抑止力に自分が制限されていないか、見直すきっかけになる。

  • 絶望
    前向きになにかやろうしとして受け入れられなかった時や、まっすぐな、ピュアっピュアな思いがむげにされた時など、人は案外簡単に絶望する。絶望も、何度もやってると内面化されて癖になる。「そういえば、おれって諦めるのがやたら早いな」と感じたら、自分を否定した社会を規範として内面化しているのかもしれない。別にオカルトというわけではなくて、デスマーチプロジェクトとかの現場にいくと、こういう人は普通にいる。心を空っぽにしている人たちが。
 
内面化の意味や範疇を逸脱したものもあるかもしれない。まあ、思いつきのブログ記事なので許してほしい。
 
 

最後に、今日書きたかったことがもうひとつだけある。 

それを言いたくてこのブログを書き始めたのかもしれない。
 
それは、何かを諦めなきゃいけないときに、そのとき自分自身をなっとくさせる言い訳が、自分の中でクセにならないよう気をつけてほしい、ってことだ。生きていれば、いつでもなんでも思い通りになるわけがない。短期的には何かを諦めなきゃいけないことは何度もある。
 
そんな時でも、「本当に大切な、自分を突き動かすモチベーション」をうかつに手放さないで欲しい。
 
繰り返すけど、内面化した規範を意識の上にひっぱり上げて修正するのはすごく大変だから。諦めた時の言い訳が、自分の中で習慣化することだけは防がなきゃいけない。その時と同じ熱さには、戻って来れなくなるかもしれない。
 
 「くやしい!」「おかしい!」「いつか絶対!」
 
なんでもいいから、そのときの素直な心のリアクションを心にとどめておいて。
 
 
 
photo by Natasha Fadeeva